今思えばではあるが、私とRはそっくりだった。01年の9/4にコンビニで立ち読みをしている時に偶然会い、彼とその後隣のファミレスで話した時、彼を鏡として見て、感じるべきだった。そうすればあのどうしようもない嫌悪感にも説明がついただろう。

 まずそれ以前に、更に4年遡って97年当時、彼の受験を援助しようとした私の本当の理由は何だったのだろう? 私は基本的には自分の事しか考えていないエゴイスティックな人間である。そんな奴が、到底実りのなさそうな他人の受験の世話などをどうしてしようと思ったのだろうか? 私が紛れもない善意だと思ってやっていた事の本質は何だっただろうか? 答えは非常にシンプルかつ空疎なものだった。

 私が引きこもっている時、たまに道ですれ違う事があった。その時ニヤニヤしながら聞いて来る事があった。「一生そうしてるつもり?」それに対する報復だったのだ。そもそもそんな嫌な奴を何故助けたいなどと思うのだろう?

 R「おれが受かるだろうか?」

 私「おまえが受からないはずはない。」

 何度か聞かれ、答えた事がある。今思えば、根拠が全く不明なのだ。「まさか早稲田や慶應や、それ以上ではない。おれのところは誰でも受かる。」謙遜でよく言っていた。ところがその「誰でも」の中にRは確実に入っていない。東京の私立高校で下から数番目という偏差値の彼が、私の大学に、予備校にも行かず(行ったところででもだが)受かるわけがないのだ。それならば何故「受からないはずがない」と言い続けたのか? 無駄な努力をさせ(大して勉強もしなかったのが彼の一番の問題ではあるが、それは私のせいではない。必死に勉強していれば、偏差値のもっと低いところに受かっていたかもしれない)、受験代を無駄に使わせ、無惨に落ちて絶望する様を横から眺めて、私は何をしようとしたのか? 

 さて、01年。雰囲気がすっかり変わった彼は自信に満ち溢れているような話し方をしていた(飽くまで虚勢である。本当に自信のある人はもう少し静かな内在性を持つはずである。あまり堂々ともしない)。当時私が無職である事を聞いて、ニヤニヤとほくそ笑み始めた。「一生そうしているつもり?」約6年ぶりに聞いた言葉だった。彼からすれば非常に面白かっただろう。あいつ、また同じところに戻って来た、と。(実際にはその頃とは少し違う。新たな作品を作るために缶詰になっていたわけであり、単に引きこもっていたわけではない。今考えればいいご身分ではある。それにコンビニで立ち読みをしていたのは、このままではお金が尽きるし、身分的にもこりゃいかんとバイトを探すためだった。話し始めに伝えておいたはずなのだが)会話の中でありとあらゆる私の欠点をついて来たが、その論法は私の当時の芝居仲間を腐すのと、やり方や内容は違えど、本質的には同じではなかったのか? 自分の欠点や自信の無さを徹底的に隠蔽するために、非常に精緻なセンサーとなって、周りにいる人達のありとあらゆる欠点・弱点に反応するのだ。今は少し成長したのか、単に老化しただけなのか、反応できなくなった。反応できても、敢えて指摘しようとも思えなくなった。逆にひどい若者に色々と欠点を指摘されてしまう始末である。まあ、当時周りの人に酷い事をしていた罰が、一挙に降りかかって来ていると思えばいいのか?

 Rはその時、バイト先で知り合った元商社の人の話をした(元商社の人が何故AV店でバイトしていたかは不明だが)。偉そうな人との繋がりを過剰に強調していた。「偉い人と話すとすごく刺激になる」ような話をトクトクとしていた。刺激にならない同世代の人間・私は下らないのだそうた。97年の頃は彼にとって、私がその「偉い人」だった。高校を中退しながら大検を経て、一浪の年で見事にそこそこの大学に入学した事から来ていたらしい。だから私の後について来たのだろう。しかし無職になった当時はその偉い人ではなくなってしまったようだ。立場がちょっと変わっただけで掌を返したように偉そうぶる彼の姿に、どうしようもない嫌悪感を感じたものだった。

 「おまえはおまえだろう? 何をやっていようが、誰と繋がっていようが、大学に受からなかろうが。金持ちになろうが、貧乏になろうが。」

 97年と01年、同じ言葉を彼に語った。どちらの言葉にも肯定も否定も秘められてはいないはずだった。彼にそれがどう聞こえたかは分からない。

 だがそう言う私はどうだろうか? 散々心中で否定して出て行ったところが世間で有名になると、掌を返したかのように彼らとの繋がりを印籠のように懐に秘め(飽くまで懐、前面に出す事はしないが。あ、6回程酔った時に前面に出して語った事がある)、10年間も辞めていた活動を再開した。散々否定をしていたあの言は何だったのか? 小物にも程がある。ただ単に私は一時期偶然一緒に居たというだけじゃないか。自分に彼らと同じような内在性があるとでも思っているのだろうか? あるならば、そもそもやめてはいないのではないか? やめたとしても、もっと長く一緒に居たはずである。

 内在する元老から外在し浮遊する悪霊へ。私は彼らにとっていつもよく分からない存在だ。10年の6/16と10/27に現れた時だって、Dがやめてしまったと風の噂で聞きつけたからだ。不幸に便乗してしゃしゃり出て来ただけである(十分に自立できる体制だったので、しゃしゃり引っ込むしかなかったが)。「世の中幸せになる人間は他人の幸福を奪ってそうなっているのだ」と言っていたRと何が違うのか?

 「現状に満足している人に、久しぶりに会いました。」

 01年明けて9/5に戻ろう。散々私を批判し、別れ際に彼は高く見下ろす位置からポーンと肩を叩いてそう言った。

 「人生は満足するためにある!」

 同年11/11、観た後輩の芝居を心の中でボロクソに批判した。私も彼もRも、現状では満足は得られないようだった。私は本作を観てやめる決心をしたくらいだ。だがそこから10年後の11年12/17、成長した彼の作品を観た時、時間の経過を感じぜずにはいられなかった。そうか、君はこんなに凄い人達を知っているんだな。だからDがやめても続けているんだな…畜生、おれの10年返してくれよ、と。

 10年の10/29Rと偶然道端でバッタリと出逢った。彼はリストラされて無職になっていた。10ヶ月くらいになるが、失業保険を貰えるので全く働く気がしないのだと言う。散々成長がどうの、将来年収2000万になるからどうのと語っていたくせに。何だ、その9年前のおれと同じじゃないか。「一生そうしているつもり?」などとは聞かない。そんな事はないだろう。何かしらやって生活していくはずだ。「現状に満足している人に、久しぶりに会いました。」言ってやっても良かったが、まあ、いいとした。私は彼の不幸を見て幸せになれただろうか? いやいや、そもそもこれが不幸かどうかは分からない。サラ金屋などやめてしまった方がむしろ幸せかもしれない。

 それにしても不思議な時系列だ。何故最後に彼らと出逢った10/27の2日後にRとバッタリ出くわすなんて。これが物語だったらどうなのだろうか? ちょっと無理な展開だと言われないか?