三・四昔前の特撮で、怪人がやられた後悪の組織の幹部が去る時残す捨て台詞である。あの時、私はそれを言う機会が訪れなかった。逆に言えば、それが一番の失敗だったのかもしれない。玩具のはずの言葉に、金色のメッキが貼られたまま埋められてしまったのである。

 玩具も作り続けていれば経験が蓄積され、やがては本物と見紛う程のものとなってゆくだろう。その時に必要なのが、上記の言葉なのだ。悔しさと共に向上を目指そうとする原動力があの言葉なのだ。上手くいかずに行った場合、あるいはそこそこだった場合、周りからは同情や励ましの言葉が集まる。「大丈夫、明日があるさ。」等々だ。だが金色のメッキが貼られた場合、そういった言葉は一切ない。本物ではないにしろ、その金ピカがある種の嫉妬の対象となってしまったのだ。散々直してくれたはずの彼が、何故かそれに対して嫉妬をしていた。愚者には見えない王様の服とはあべこべ、自分にだけ見えなない黄金のメッキ。だがチンケなプライドだけは発生するようで、それが鎧となり、脆弱な自意識を徹底的に保護していた。最後まで守り通した果てに、結局何もなかった。あれから24年の月日が経った。公演まで辿り着けた作品は一つもない。その間に、散々否定して来た彼らの作品はいくつ公開されて来ただろうか? そしていくつの作品がメッキではない栄光の評価を得て来ただろうか?

結局のところ、私が悪いのだ。他の人ならばともかく、自分で埋めてしまったのだ。掘り起こしてメッキではない、本物の黄金を貼り付けるように、一歩一歩過程を経て行けば良かったのである。

「過去はバラバラにして埋めても、ミミズのように這い出して来る。人間の成長とは結局過去に打ち勝つ事だ。」

ディアポロは言う。違うのだよ。過剰な否定でも礼賛でもなく、過去を受け止め承認する事、これが必要なのだ。そのためには近道はない。遠回りしてでも真実に辿り着く努力をすべきだったのだ。

「考え続ける事で人間は強くなれる。」

とハンナ・アレントは言う。私はその考え始めるところから逃げていた。私の行動には結局2種類しかない。①他人の欠点・弱点に反応する精緻なセンサーとなり、タカる事。②現状に適応できなくなり、「ここではない何処かへ」逃亡する事。どちらにも、「現状の自分がどの程度で、どうしたら理想や目的とするものになれるか」と言った視点が全くないのだ。

それともう一つ、大地に立つ言葉がない。その言葉の賞味期限がどの程度かは別として、それがなければ未来への先の道も何もない。

さて、今の私はどうだろう? 結局「今の生活空間」に適応できなくなり、「ここではない何処か」「虚数的な、あるはずだった過去〜未来」へと逃亡しているだけなのではないのか?