この年になって何なのだが、葬式というものには今回も含めて4回程しか出た事がない。小四の時の同級生、父方の祖母、母方の祖母、で今回だ。それ以前はまだ幼く記憶が曖昧なので、今思い出してみればあれは葬儀だったのかどうか分からないのが何件かある。幼い頃伯父の妻の実家に行った記憶があるが、親戚が沢山集合していたので、あれは葬式だったのかもしれない。母方の祖父は私が5歳くらいまで生きていたので、その葬式にも出たかもしれない。確実に覚えているのが四回だという事である。私が相対的に人との交流が少ない人なのか。それとも葬式を家族内でコンパクトに済ましてしまう事が多くなってしまい、時勢的な問題なのか。共演者の8つ年下の男も2回程しか出た事がないと言っていた。死亡する人の数自体は年々増え続けているので、葬式の数自体は増えているとは思うのだが。

 小四の同級生の時の事、焼香というもの自体を知らなかったので、その場で見様見真似で回数間違えて済ましてしまった。お経を聞いている時、その亡くなった子の母親のみならず、他の同級生の母親もボロボロと泣いていたのに、泣かない自分が非常に薄情者に感じた。校長が美味そうに寿司を食っていた記憶が何故か残っている。

 今回もそうだった。棺に入った故人を側で見ながら元制作の人がボロボロと泣き崩れ、他の人も泣いているのに、自分の涙は出て来ない。情が薄いのは父に似たのだろうか?

 母方の祖母が療養型病院に入院し、コロナも何もなかった頃だったので、母は毎日面会に行っていた。そんな母に対し、父は平気で皮肉を言い続けた。「息を吹き返しても、どうせ何も覚えていまい。『あれ? どちらさんだっけ?』とか言われても困る。」だの、「おまえには病院に行くしかやる事がないのか?」だの。祖母が亡くなった時も、葬式にさえ顔を出さなかった。自分の身に降りかかる悪い事は皆母方の血のせいだという事にするのだ(帰属処理と切断操作というそうである)。そんな父に対して弟がキレた。彼がキレる前にオレがちゃんと言うべきだったのだ。だが当時の私は「言ってもわからん人には分からん」という態度をとり続けた。言ったとしても、また被害者ぶって黙って逃げるのは確かな事ではあるのだが…

 帰りに久しぶりに再会した共演者達と色々な話をした。彼と出会って8年、会った時の第一印象。初めの公演の時の思い出。稽古途中に熊本地震が起きた事。彼の妙な拘りについて。私が出てない公演で、他の共演者が出演しているのを観るという機会が多いのに、二回目に出演した時は私だけが出演して共演者に観られる側だった事を奇妙に感じた事。他の四人よりも関係が薄く2回しか出ていないというのに、かなり細かい事を彼らよりも覚えている自分にびっくりした。そんなにここに愛着があったのだろうか? 初めの公演は(つまり彼らと共演した回)、苦しくて仕方がなかったはずなのに。終わった時「もう二度と関わりたくない」とすら思ったはずなのに(無論主催や他の共演者に問題があったわけではない。私の個人的な問題で)。

 歓談したファミレスを出る時、席の端っこの方に押し込めていた荷物を全部取り出すと、自分のもらった香典返しがなくなっているのに気がついた。女の子が笑い出す。「あんなに昔の事覚えてるのに、つい最近の事は覚えてないの?」店員に聞いたら運がいい事に落とし物として届けられていた。隣の彼と同じ箱に包まれている。一つ違うのは手提げの紐が一つ切れている事だ。ここに来る途中雨に濡れたか妙な負荷がかかったかして切れてしまったのを覚えている。つまり、この中の一人がどこかに置き忘れたのをしらばっくれて、私のを自分のものにしてしまったのではないという事だ。店員が言うには、レジ前に落ちていたと言う。雨の中漸くここに辿り着いた事で安心してしまったのだろうか?

 帰りの電車に乗り、最寄駅に着いた時、雨はもうやんでいた。