…は、一体どんなタイミングなのだろうか?

 若き日の彼の写真は、何処かツンとしていてギラギラとしたものを内に秘めていそうな、孤高の貌をしていた(ように私には見えた)。

 「田舎に引っ込んでどうする? 東京で勝負しなきゃ駄目なんだ。」

 と、友人に啖呵を切ったそうだ。故郷の実家が嫌いで家出をした事もある彼が目指した東京、そして人生を語り合う仲間の出来た東京、そして実際に最期まで勝負し続けた彼の東京というもののイメージが実際どういうものだったかはよく分からない。

 しかし少なくとも私の知っている彼には、そんなギラギラとした牙はなくなっていた。明らかに役者側の不手際で初日落ちを経験した公演の時、役者に怒った後さっさと謝ってしまったことがあった。「怒った後に謝ったら効果無くなるじゃないですか。」と私は彼にその後言った。芝居をやり続ける自分に理想を持ち続けたい自分と、離れたい自分の間で揺れ動いていた公演もあった。実際最後の公演とその一つ前の公演の間には5年近くのブランクがあった。毎日更新していたブログも、そのブランクの間は敢えて更新しないようにしていた事もあった。Twitterも含めて開くと芝居の事に繋がるので、敢えてノータッチにしていたのだそうだ。

 彼のブログや公演内容には孤独をテーマにしたものが多い。「〜の孤独」とか、「孤独の〜」などだ。登場する人物の孤独も本当に様々だった。一人暮らしで縁のない人の孤独、家族の中での孤独、周りに理解されない孤独…生まれた家族を出て、東京でできた家族もうまくいかず、新たに造り上げた家族のようなものも出入りが激しいものとなってしまった。最後に三人でとある場所をまわった時の記録も、もう二人とも芝居をやめていたので、記憶の走馬灯のようでもあった。

 孤独とは何だろう? 都会の知らない人だらけの雑踏の中にいる事か? 無限の草原の中一人でいる事か? 私は二つとも丸をつける事はできない。明らかに前者の方だと思う。周りに関係性が無限にあるように見えて、その中で関係性をうまく構築できない、あるいは長く構築できない事の中に孤独は潜んでいるのではないだろうか?

 「共同体の対立物が都市であるのだから、そのイメージが悪夢めいて来るのは至極当然の事なのだ」(だったかな? ちょっと違うかもしれない。随分昔に読んだものなので…)

 と、今年生誕百年の安部公房が言っていたが、そう言う事だろうか?

 となると田舎はどうだろう? 村社会というような言葉が示す通り、厚い繋がりがあるようにも見える。が、彼がそれを信じられないのは明白だ。田舎で孤独を感じずに一人でやっていくにも限界がある。先に繋がるツテはやはり都会の方にある。

 絶望の中を他人を発見しながら突き進んでゆく。都会の中を生きるには、隣人思想を越えた何か別のものが必要になる。が、それが具体的に何なのか、私にはまだイメージする事はできない。